鎌倉から世界へ 日本品質で、もう一度勝負する【メーカーズシャツ鎌倉株式会社 代表取締役社長 貞末 奈名子氏】

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「鎌倉シャツ」の名で親しまれるメーカーズシャツ鎌倉株式会社は、1993年の創業から30余年、「最高品質のシャツを、納得できる価格で」という信念を一貫して守り続けてきました。創業者で父親の貞末良雄氏、母親のタミ子氏から経営を引き継ぎ、2020年に代表取締役社長に就任した貞末奈名子氏は、コロナ禍という未曾有の危機の中、次々と大胆な決断を重ね業績を回復させ、ニューヨークへの再進出を果たしました。後継社長の貞末氏の挑戦について伺いました。

お話を聞いた方

貞末 奈名子氏さだすえ ななこ

メーカーズシャツ鎌倉株式会社 代表取締役社長

1972年、神奈川県鎌倉市生まれ。1995年に聖心女子大学を卒業。同年、湘南信用金庫に入社。1998年にメーカーズシャツ鎌倉株式会社に入社し、Webビジネス、店舗開発、業務システム構築など経営全般に携わる。2012年のニューヨーク出店では、不動産契約から開店準備の全工程を担った。2019年には中国・上海店の出店を主導。2020年、創業者・貞末良雄氏より経営のバトンを受け、代表取締役社長に就任。コロナ禍での全店休業という厳しい局面から業績をV字回復させ、2024年にはニューヨークにサロン形式での再出店を果たした。

言い出したら聞かない父と巻き込まれた娘

父が「シャツ屋をやる」と言い出したのは、私が大学3年生の頃。バブルが弾けて数年が経過したときでした。世の中が自信を失って、新しいことを始める機運も減退していた折に「なぜ起業?」というのが、私の率直な気持ちでした。

父は言い出したら聞かない人でした。当時、父は会社勤めを続けながらの兼業で、母と私が交代で店番をしました。学生の私はシャツのことはほとんどわからず、ある日、お客様から「タブカラー*1のシャツが欲しい」と相談を受けたとき、その言葉すら知らず、「何ですか、それ」と言ってしまうほど。お客様が親切に教えてくださり、そうして一つずつ学んでいくような状態でした。プレゼント包装もうまくできず、しびれを切らしたお客様が「自分でやる」と包装紙をお持ち帰りになることもあって、今思い出しても、失敗だらけの店番でした。

* 1 左右の襟をつなぐ紐(タブ)が施されている襟(カラー)の形状。ネクタイを締めた後に下から紐をかけることでネクタイを浮かせて立体的に見せることができる

そんなおぼつかない船出でしたが、創業時からずっと、私たちは品質にはこだわり続けています。もともと両親は、アイビールックを日本に普及させた石津謙介さんのブランド「ヴァンヂャケット」に勤めており、恩師の石津さんから「日本人の男性をおしゃれにする」という思いを引き継いでの創業でした。

シャツの生地には肌触りがしなやかな極細糸を使い、仕上げには「巻き伏せ本縫い」という裏側に縫い代が出ない縫製を採用しています。ボタンは、高級シャツの証しでもある天然の「貝ボタン」を使用。手間もコストも通常では考えられないほど要しますが、私たちは利益よりも、お客様に喜びを届けることを選んだのです。そのことをわかってくださるお客様が増えるにつれて、店も全国に広がっていきました。

大学を卒業後、私は一度金融機関に就職します。ですが、年を追うごとに家業の事業規模が大きくなり、父もサラリーマンをやめて会社経営に本格的に乗り出します。そして1998年、私も後に続きます。

今でも覚えているのが、入社した私の机に置かれていた書類の山です。半年分の伝票が手付かずの状態でたまっていて、愕然としました。その頃は、インターネットが普及し始めた時代です。私は「自分が楽をするためにシステムを整備しよう」という一心で、在庫管理や財務のシステム化、POS*2導入など、現在でいうDX化を10年ほどかけて進めていきました。当時は大変苦労しましたが、今思えばこうした作業が会社の基盤をつくったのだと感じています。

* 2  「Point of Sales」の略。販売時点情報管理

ピンチの連続が経営者を育てた

入社後、私はいつも父と肩を並べて働いていました。父がメディアの取材を受ける際には同席し、できた原稿をチェックするのも私の仕事でした。

すると2010年ごろ、父がメディアに向けて「ニューヨーク出店を目指す」と言い出したのです。

あのときは本当に驚きました。というのも、当時は国内もまだ10店舗ほどで、わざわざアメリカに行く意味がわからなかった。ちょうど、中国進出が日本企業のブームになっていたので、「せめて、距離的にも近い上海にしませんか」と提案しました。

すると、父は「バカ野郎!最初から妥協してどうする」と怒鳴りました。その頃、ニューヨークは「メンズファッションの聖地」と言われていました。そこで日本人がアパレル業を営むのは、「銀座にアメリカ人が寿司屋を出すようなもの」と揶揄されるほど。しかし父は「ニューヨークで成功すれば、ほかの国でもうまくいく。だからこそ、まずは一番難しい場所を狙うんだ」の一点張りです。

それからは、ケンカをして足を引っ張るより、成功するためにできることだけを考えようと気持ちを切り替え、私はニューヨーク進出準備に奔走。2012年には当社初となる海外店舗「ニューヨーク マディソン・アベニュー店」がオープンしました。驚いたのが、特に説明しなくても、現地の人に「いいものだ」とわかってもらえたことです。ぱっと見ただけで「こんなに上質なシャツを、なぜ低価格で売るの?」と尋ねてくる人もいました。

ニューヨーク進出は成功のように思われました。しかし、その後新型コロナウイルスのパンデミックが発生。日本にも緊急事態宣言が発出され、約200人の従業員が出勤できず機能停止状態に陥りました。すべてのチャネルが大赤字を出している状況で、最も被害が大きく、売り上げ面でも損害を出しているニューヨークの店舗を閉じるに至ったのです。この頃、すでに私が会社を引き継いでいたので、社長になって最初の大きな、苦渋の決断でした。

一方で、「この地にまた戻ってきたい」とも感じていました。というのも、ニューヨーク出店時に交わした不動産の契約書に「毎年4%、家賃が上昇する」とあったのです。出費は手痛いですが、言い換えれば、このマーケットでは4%のインフレが起きることが前提になっている。この成長性は面白いと思いました。

ニューヨークが教えてくれた日本の強み

今、日本は円安で苦しんでいます。でも、日本製の高品質な製品を手ごろな価格で世界に知らしめるチャンスでもあり、私たちのシャツを広める機会でもあります。

2024年、私たちは再びニューヨークの地を踏みました。過去のノウハウをもって、今度は初期投資と販管費を抑えながら商売ができる、オーダーメイド限定のサロンをオープンさせました。客単価は450ドルと、日本の店舗と比較しても好調な滑り出しを果たしています。2026年4月にはワシントンD.C.に、同年中にサンフランシスコにもオープン予定です。

父は、53歳で会社を創業しました。そして今、私も53歳です。振り返ってみると、あのとき、父が決断してくれていて本当によかった。今後は、ファミリービジネスから一つステージを上げていくこと、そして、鎌倉シャツを日本発のグローバルブランドに育てることが目標です。「ジャパンクオリティ」を世界にとどろかせ、もう一度「強いニッポン」を取り戻すために、ささやかながら尽力していきます。

[編集]株式会社ボルテックス コーポレートコミュニケーション部
[制作協力]株式会社東洋経済新報社

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