人手確保を最優先し、世界からの直接買い付けで日本一の干物屋に【株式会社山安 代表取締役社長 山田 義征氏】
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創業162年、全国でもトップクラスの生産量を誇る「小田原ひもの」の老舗、山安。1日の加工枚数は約20万枚と、干物業界の他社を圧倒する生産量です。伝統の味を守りながら品質管理を徹底し、リーズナブルな価格を実現できている理由はどこにあるのでしょうか。60年以上にわたって同社を牽引してきた4代目の山田義征氏にお話を伺いました。
いち早くスーパーと取引し、品質管理の要諦をつかむ
山安は、小田原で江戸時代末期の文久3(1863)年に創業しました。小田原は古くから漁業が盛んで、初代の山田直次郎は仲買事業と魚商をしていました。塩干加工業として干物をつくるようになったのは、明治25(1892)年に家業を継いだ2代目の山田安太郎。私の祖父からです。
父である3代目の山田満造が事業を継いだのは昭和27(1952)年ですが、当時はまだ仲買にも力を入れていて、仲買半分、干物半分という状況でした。
しかし、魚はどうしても獲れたり獲れなかったりになるので、仲買は商売として不安定なのです。安定させるため干物の割合を増やしていきました。ただ、商圏はなかなか広がらず、観光客向けの土産物販売が中心でした。
私は高校を卒業した昭和38(1963)年に家業へ入りましたが、その状況に歯がゆさを感じていました。父は私にある程度の裁量を委ねてくれたので、どうにかならないかと模索した結果、着目したのがスーパーマーケットです。当時、スーパーマーケットは小田原にはなかったのですが、そのうち当たり前の存在になると確信し、取引を始めたところ、国道1号の舗装によって物流も整備され、このもくろみが見事に当たったわけです。
スーパーマーケットとの取引で驚いたのは、品質や異物混入がないこと、サイズまで細かく指定されたことでした。指定どおりでないと全量返品され、すぐに代わりの品を持っていかなくてはなりません。おかげで、品質管理のレベルを上げることができ、売上も伸ばすことができました。現在、生活協同組合などとも取引をすることで、1日約20万枚の加工枚数を実現していますが、品質に厳しいお客様のニーズに応えて量産できるようになったのは、いち早くスーパーマーケットとの取引を始めたことが大きかったと思っています。
世界にネットワークを広げて良質な原料を適正価格で入手
もちろん、そこまでの量産体制にすぐたどり着けたわけではありません。干物屋の中では大きくなっていましたが、商売としては物足りない状態です。私は負けず嫌いで、「やるからには日本一の干物屋になる」との目標を持っていたので、どうにかしたいと思っていました。
そんなとき、転機となった出来事がありました。ある商社が、組合(小田原ひもの協同組合)にアフリカのアジを売り込みにきたのです。今もそうですが、日本近海のアジは高価です。しかもそのとき、アジはほとんど獲れず、需要があるのに売り物がない状況でした。
しかし、その頃は近海物を使うのが当たり前だったので、組合の人たちは興味を持たなかったのです。私は、良質なアジを安価で仕入れられるチャンスだと思ったので、商社の担当者を駅まで送る役を買って出て、「ウチはやります」と伝えました。
この経験から、原料の仕入れに国境を意識しなくなりました。小田原の定置網も欠かさず見ていますが、韓国や中国、アメリカ、ノルウェー、アイルランド、オランダなど世界中にネットワークを広げ、日々連絡をとって良質な魚を確保しています。また、干物づくりに欠かせない「塩」にもこだわり、魚と同様に世界中を回って探し出しました。良質でも価格が高すぎると使えませんので、質と価格のバランスを見極めています。
今は、原則的に商社を介さず、直接買い付けることを基本としています。直接買い付けると品質もしっかり確認できますし、マージンがないので売りやすく、お客様が買いやすい適正価格を守ることができています。干物屋の中で、それができているのはウチだけではないかと思っています。なぜならば、それだけの生産量のある干物屋は他に見当たらないからです。
こうして原料確保のルートを確立してから、生産量は飛躍的に拡大しました。一方で、人手不足の問題が深刻化してきました。技術の進歩で使う道具は変わりましたが、美味しい干物をつくりあげるため、基本的な製法は昔と変えていないからです。いくら良質な原料を安く仕入れても、人がいなければ商品にはなりません。
もちろん、小田原ではつねに人を募集していますが、なぜか昔から人が集まりにくいのです。それこそ私が小学生の頃から同じで、夏休みは毎日魚を切るのに駆り出されました。遊びに行きたくても、人がいないので手伝わざるを得ませんでした。
そこで、別の場所に工場を作ることで、人手を集めようと考えました。まずは先代の時代からの取引相手が多くいる九州で検討しましたが、魚は入りやすいものの、他業種の工場がたくさんあって人が集まりにくいというのです。それでは意味がないので、別のところを探した結果、たどり着いたのが釧路でした。高校などで説明会を開くと多くの人が集まってくれて、大きな手応えを感じたのをよく覚えています。
「小田原の干物屋がなぜ釧路に?」といぶかしがられましたし、魚の流通だけ考えたら必然性は低いですが、商売で最優先すべき人の確保を優先した意思決定でした。結果として、釧路工場の設立は会社の力を底上げすることにつながったと思っています。商売の秘訣は人を集めることにあると改めて痛感しています。
「美味しさ」「品質」「適正価格」の徹底追求で持続可能性を確保
私が家業に入ってから62年の間で、一度だけ赤字になってしまったことがあります。1990年に釧路工場を設立した翌年だったので、仕方のない部分もありますが、当時は重く受け止めました。それまで右肩上がりに伸ばしてきたので、ショックが大きかったのです。
そこで、経営コンサルタントを招聘して毎月3回、勉強会を行いました。それを1年半にわたって継続する中で生み出したのが経営理念です。「美味しさの追求」「品質の追求」「適正価格の追求」の三箇条とシンプルですが、これを守るには原料の仕入れも生産管理も、販売管理もすべて追求しなくてはなりません。
この三箇条を守ることで、トレンドのコントロールもできています。例えばホッケやサバなどは、海外から買い付けるだけでなく、ベトナムの提携工場で加工しているのですが、最近はより食べやすくするために、骨を抜いたり加圧してすべて食べられるようにしたりしています。特にホッケは供給量、価格ともに安定しており、「美味しさ」と「品質」を追求した結果、「適正価格」も実現できています。
この好循環を維持して人が確保できていれば、不況や突発的な変化も恐れることはないと考えています。むしろ、そうした逆境に強くなれるというのが、私の経験則です。実際、コロナ禍もほとんど影響がありませんでした。4代目として160有余年の歴史をつないできましたが、時代は変わっても、人と品質を大切にするという根幹を変えないことがやはり重要だと思いますし、5年前に社長を譲った息子にもそのことを改めて伝えて、これからも時代の先を読む経営で家業を継承していってほしいと考えています。
[編集]株式会社ボルテックス コーポレートコミュニケーション部
[制作協力]株式会社東洋経済新報社
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