低利回りの逆説‐物価連動が資産価値を増幅させる仕組み

目次

はじめに‐新たな価値の物差し

第1回では、30年続いたデフレの常識が終焉し、安全と信じられてきた「安定収入」や「地方の高利回り」といった考え方が、インフレが常態化する経済環境において危険な誤謬へといかに変質しうるかを論じました。賃料が固定されたままでは、インフレの進行にともない資産の実質価値は不可逆的に低下します。デフレ時代の前提は、もはや有効な指針として機能しません。

したがって、インフレ時代に適応する投資判断の基準を新たに確立する必要があります。資産価値の維持を目指す受動的な運用にとどまらず、経済の構造変化を好機と捉え、インフレを資産成長に転換する能動的な資産形成が求められます。

第2回では、提起された課題に応えるため、『資産価値の氷山モデル』を提示し、インフレを収益に変える「契約価値」の仕組みを、具体的な事例と経済理論で論証します。

1. 資産価値の氷山モデル‐即物・契約・時代価値の3層構造

インフレ時代の不動産投資で資産の実質的価値を見抜くには、視点の転換が求められます。不動産の価値は、利回りや立地、築年数や空室率といった直接観察可能な要素のみで決まるわけではありません。直接観察可能な要素は、価値の全体像から見れば、海面上に現れた氷山の一角に過ぎません。

『資産価値の氷山モデル』は、価値を3つの階層で評価する枠組みです。

第1の階層は、海面上に見えている「即物価値」です。利回り、立地、築年数、空室率など、誰もが直接観察できる要素を指します。

第2の階層は、海面下に隠された契約価値であり、コアCPIに連動する賃料の定期改定条項など、収益の成長と安定を実現する契約上の設計を意味します。

そして第3の階層に位置するのが、契約価値を支える「時代価値」であり、法制度や人口動態といった構造変化を乗り越え、資産が長期にわたり価値を維持し続けるための根源的な能力を示します。

デフレの時代には、即物価値の評価だけでも大きな問題はありませんでした。しかし、インフレが常態化する環境下では、資産の長期的価値は海面下の契約価値と時代価値によって決定されます。第2回では特に、インフレ時代における資産価値の核心となる契約価値について、詳しく検討します。

2. 契約価値の本質‐インフレを収益に転換する規律ある仕組み

契約価値とは、賃料収入の成長を実現する、規律ある仕組みそのものを指します。中核となる「規律ある定期見直し」とは、賃料をコアCPIなどの客観的な経済指標に連動させ、事前に合意したルールに基づき定期的に賃料を改定する仕組みです。

場当たり的な「賃料改定交渉」とは異なり、規律ある定期見直しは、経済の変動リスクを契約という公平なルールに則って双方が分担する、合理的で持続可能なパートナーシップを可能にします。インフレ局面ではオーナーが、デフレ局面ではテナントが、それぞれ恩恵を受ける設計となっているためです。

物価連動条項は、学術的・制度的には早くから整理されてきた一方、国内の不動産取引実務での採用は限定的でした。しかし、近年の日本不動産市場では、先進的な投資主体によって実用性が証明されつつあります。

実用性を証明する代表例が、国内最大手の物流施設に特化した不動産投資信託、いわゆるREITであるGLP投資法人です。同法人は「CPI連動条項等を含むインフレ対応型契約」がポートフォリオの90%以上を占めると開示しています。決算資料によれば、2025年2月期にはCPI連動条項の適用で平均5.3%の賃料上昇を達成し、さらに2025年8月期には7%から8%の上昇が見込まれます。GLP投資法人の実践例は、契約価値の仕組みが理論上の概念にとどまらず、日本市場で高い実効性を持つ戦略であることを実証しています。

3. 契約価値の核心‐指標と実勢の乖離がもたらすベーシスリスク

契約価値の仕組みが真価を最大限に発揮するには、特定の構造的条件の理解が前提となり、構造的条件の中心概念が「ベーシスリスク」です。

ベーシスリスクとは、例えばコアCPIのような契約参照指標の動きと、テナントの賃料負担能力や地域の実質的な需要の動きが一致せず、改定結果が現場の実勢から乖離するリスクを指します。

仮に全国平均では輸入資源価格の高騰でコアCPIが3%上昇していても、ある地方都市では基幹産業の不振で地域経済が停滞し、企業の収益力が伸び悩んでいる状況は十分に起こりえます。そのような状況下で、契約書にのみ準拠してコアCPIに連動した賃料上昇を強いられれば、テナントの支払い能力は限界を超え、賃料滞納や債務不履行、あるいは事業継続を断念しての退去を招きかねません。

マクロ経済全体の動きと、特定の地域や企業のミクロな現実とが乖離するとき、物価連動条項は公平な調整機能ではなく、双方にとっての不安定要因へと変貌します。

4. ベーシスリスクの克服と東京市場の優位性‐契約価値を機能させる3つの構造的条件

ベーシスリスクを克服し、契約価値の仕組みを安全に機能させるためには、少なくとも3つの構造的条件が求められます。

第1の条件は、地域の経済が、国のマクロ経済指標と高いレベルで連動していることです。

第2の条件は、テナントとなる企業群が、物価上昇を吸収できるだけの高い収益性と成長力を持っていることです。

そして第3の条件は、資産の希少性が高く、オーナーがテナントに対して公正な交渉力を行使できることです。

3つの構造的条件を現時点の最高水準で満たす資産こそ、東京の優良オフィスです。東京の巨大で多様性に富んだ経済は、日本のマクロ経済と極めて強く連動しています。さらに、東京に集積する企業の多くは、経済を牽引する高付加価値産業の担い手です。

企業にとって、東京にオフィスを構えることは単なるコストではなく、優秀な人材を惹きつけ、情報を獲得するための戦略投資です。そのため、賃料負担能力は地方とは一線を画します。

ただし、東京市場内であっても、すべての物件が一様に優れているわけではありません。競争力や立地によってはマクロ経済の動向から賃料が乖離するベーシスリスクが内在するため、単に「東京の不動産」と一括りにみなすのは危険です。

本連載の分析対象を、代替不可能な価値を持つ東京の優良オフィスに限定する理由はベーシスリスクの克服にあります。ベーシスリスクを構造的に克服できる資産だけが、長期的価値を持つためです。

5. テナント側の合理性‐経営の予見可能性がもたらす価値

契約価値は、オーナー側にのみ一方的な利益をもたらす仕組みに誤解されるかもしれません。しかし、契約価値の真意は異なります。適切に設計された規律ある定期見直しは、テナントにとっても経営の予見可能性を高めるという客観的な合理性を提供します。

数年ごとの契約更新のたびに、賃料が市場の動向次第で大幅に変動する不確実性は、企業の長期的な設備投資や人材採用を抑制する、目に見えない経営コストです。年次改定の上限(キャップ)と算定式を事前に合意した契約は、賃料改定の変動幅を抑制し、キャッシュフロー予測誤差を縮小させます。

賃料の予見可能性を提供することこそが公正な契約の価値であり、最も優秀な企業ほどこのような規律ある契約を提示できるオーナーを長期的なパートナーとして選好する傾向にあります。

結論‐東京の優位性と二極化の加速

これまでの検討から、不動産市場は二極化が加速すると結論づけられます。即物価値のみに依存する不動産と、契約価値という成長の仕組みを実装できる戦略的不動産との間の価値格差は、今後決定的に拡大していくと見込まれます。

インフレを前提とする時代への移行は、もはや未来の予測ではなく、すでに進行している現実です。物流REIT市場の動向に加え、オフィス市場においても具体的な動きが顕在化しています。例えば、ジャパンリアルエステイト投資法人が、大口テナントとコアCPI連動型契約を締結した事例は、国際標準の契約設計が日本のオフィス市場にも浸透し始めたことを象徴しています。

今後の不動産投資の成否を分けるのは、もはや物件選定の巧拙ではありません。問われるのは、資産に契約価値を実装し、環境変化に適応させながら価値を能動的に形成するという視点の有無です。価値形成を実践するうえで最適な市場が東京といえます。

もっとも、契約価値という仕組みを実装するには、借地借家法に代表される日本固有の法制度といかに整合させるかという課題が残されています。第3回では、日本固有の法的制約の分析をとおして、時代価値の本質を明確にします。

はじめに‐新たな価値の物差し

第1回では、30年続いたデフレの常識が終焉し、安全と信じられてきた「安定収入」や「地方の高利回り」といった考え方が、インフレが常態化する経済環境において危険な誤謬へといかに変質しうるかを論じました。賃料が固定されたままでは、インフレの進行にともない資産の実質価値は不可逆的に低下します。デフレ時代の前提は、もはや有効な指針として機能しません。

したがって、インフレ時代に適応する投資判断の基準を新たに確立する必要があります。資産価値の維持を目指す受動的な運用にとどまらず、経済の構造変化を好機と捉え、インフレを資産成長に転換する能動的な資産形成が求められます。

第2回では、提起された課題に応えるため、『資産価値の氷山モデル』を提示し、インフレを収益に変える「契約価値」の仕組みを、具体的な事例と経済理論で論証します。

1. 資産価値の氷山モデル‐即物・契約・時代価値の3層構造

インフレ時代の不動産投資で資産の実質的価値を見抜くには、視点の転換が求められます。不動産の価値は、利回りや立地、築年数や空室率といった直接観察可能な要素のみで決まるわけではありません。直接観察可能な要素は、価値の全体像から見れば、海面上に現れた氷山の一角に過ぎません。

『資産価値の氷山モデル』は、価値を3つの階層で評価する枠組みです。

第1の階層は、海面上に見えている「即物価値」です。利回り、立地、築年数、空室率など、誰もが直接観察できる要素を指します。

第2の階層は、海面下に隠された契約価値であり、コアCPIに連動する賃料の定期改定条項など、収益の成長と安定を実現する契約上の設計を意味します。

そして第3の階層に位置するのが、契約価値を支える「時代価値」であり、法制度や人口動態といった構造変化を乗り越え、資産が長期にわたり価値を維持し続けるための根源的な能力を示します。

デフレの時代には、即物価値の評価だけでも大きな問題はありませんでした。しかし、インフレが常態化する環境下では、資産の長期的価値は海面下の契約価値と時代価値によって決定されます。第2回では特に、インフレ時代における資産価値の核心となる契約価値について、詳しく検討します。

2. 契約価値の本質‐インフレを収益に転換する規律ある仕組み

契約価値とは、賃料収入の成長を実現する、規律ある仕組みそのものを指します。中核となる「規律ある定期見直し」とは、賃料をコアCPIなどの客観的な経済指標に連動させ、事前に合意したルールに基づき定期的に賃料を改定する仕組みです。

場当たり的な「賃料改定交渉」とは異なり、規律ある定期見直しは、経済の変動リスクを契約という公平なルールに則って双方が分担する、合理的で持続可能なパートナーシップを可能にします。インフレ局面ではオーナーが、デフレ局面ではテナントが、それぞれ恩恵を受ける設計となっているためです。

物価連動条項は、学術的・制度的には早くから整理されてきた一方、国内の不動産取引実務での採用は限定的でした。しかし、近年の日本不動産市場では、先進的な投資主体によって実用性が証明されつつあります。

実用性を証明する代表例が、国内最大手の物流施設に特化した不動産投資信託、いわゆるREITであるGLP投資法人です。同法人は「CPI連動条項等を含むインフレ対応型契約」がポートフォリオの90%以上を占めると開示しています。決算資料によれば、2025年2月期にはCPI連動条項の適用で平均5.3%の賃料上昇を達成し、さらに2025年8月期には7%から8%の上昇が見込まれます。GLP投資法人の実践例は、契約価値の仕組みが理論上の概念にとどまらず、日本市場で高い実効性を持つ戦略であることを実証しています。

3. 契約価値の核心‐指標と実勢の乖離がもたらすベーシスリスク

契約価値の仕組みが真価を最大限に発揮するには、特定の構造的条件の理解が前提となり、構造的条件の中心概念が「ベーシスリスク」です。

ベーシスリスクとは、例えばコアCPIのような契約参照指標の動きと、テナントの賃料負担能力や地域の実質的な需要の動きが一致せず、改定結果が現場の実勢から乖離するリスクを指します。

仮に全国平均では輸入資源価格の高騰でコアCPIが3%上昇していても、ある地方都市では基幹産業の不振で地域経済が停滞し、企業の収益力が伸び悩んでいる状況は十分に起こりえます。そのような状況下で、契約書にのみ準拠してコアCPIに連動した賃料上昇を強いられれば、テナントの支払い能力は限界を超え、賃料滞納や債務不履行、あるいは事業継続を断念しての退去を招きかねません。

マクロ経済全体の動きと、特定の地域や企業のミクロな現実とが乖離するとき、物価連動条項は公平な調整機能ではなく、双方にとっての不安定要因へと変貌します。

4. ベーシスリスクの克服と東京市場の優位性‐契約価値を機能させる3つの構造的条件

ベーシスリスクを克服し、契約価値の仕組みを安全に機能させるためには、少なくとも3つの構造的条件が求められます。

第1の条件は、地域の経済が、国のマクロ経済指標と高いレベルで連動していることです。

第2の条件は、テナントとなる企業群が、物価上昇を吸収できるだけの高い収益性と成長力を持っていることです。

そして第3の条件は、資産の希少性が高く、オーナーがテナントに対して公正な交渉力を行使できることです。

3つの構造的条件を現時点の最高水準で満たす資産こそ、東京の優良オフィスです。東京の巨大で多様性に富んだ経済は、日本のマクロ経済と極めて強く連動しています。さらに、東京に集積する企業の多くは、経済を牽引する高付加価値産業の担い手です。

企業にとって、東京にオフィスを構えることは単なるコストではなく、優秀な人材を惹きつけ、情報を獲得するための戦略投資です。そのため、賃料負担能力は地方とは一線を画します。

ただし、東京市場内であっても、すべての物件が一様に優れているわけではありません。競争力や立地によってはマクロ経済の動向から賃料が乖離するベーシスリスクが内在するため、単に「東京の不動産」と一括りにみなすのは危険です。

本連載の分析対象を、代替不可能な価値を持つ東京の優良オフィスに限定する理由はベーシスリスクの克服にあります。ベーシスリスクを構造的に克服できる資産だけが、長期的価値を持つためです。

5. テナント側の合理性‐経営の予見可能性がもたらす価値

契約価値は、オーナー側にのみ一方的な利益をもたらす仕組みに誤解されるかもしれません。しかし、契約価値の真意は異なります。適切に設計された規律ある定期見直しは、テナントにとっても経営の予見可能性を高めるという客観的な合理性を提供します。

数年ごとの契約更新のたびに、賃料が市場の動向次第で大幅に変動する不確実性は、企業の長期的な設備投資や人材採用を抑制する、目に見えない経営コストです。年次改定の上限(キャップ)と算定式を事前に合意した契約は、賃料改定の変動幅を抑制し、キャッシュフロー予測誤差を縮小させます。

賃料の予見可能性を提供することこそが公正な契約の価値であり、最も優秀な企業ほどこのような規律ある契約を提示できるオーナーを長期的なパートナーとして選好する傾向にあります。

結論‐東京の優位性と二極化の加速

これまでの検討から、不動産市場は二極化が加速すると結論づけられます。即物価値のみに依存する不動産と、契約価値という成長の仕組みを実装できる戦略的不動産との間の価値格差は、今後決定的に拡大していくと見込まれます。

インフレを前提とする時代への移行は、もはや未来の予測ではなく、すでに進行している現実です。物流REIT市場の動向に加え、オフィス市場においても具体的な動きが顕在化しています。例えば、ジャパンリアルエステイト投資法人が、大口テナントとコアCPI連動型契約を締結した事例は、国際標準の契約設計が日本のオフィス市場にも浸透し始めたことを象徴しています。

今後の不動産投資の成否を分けるのは、もはや物件選定の巧拙ではありません。問われるのは、資産に契約価値を実装し、環境変化に適応させながら価値を能動的に形成するという視点の有無です。価値形成を実践するうえで最適な市場が東京といえます。

もっとも、契約価値という仕組みを実装するには、借地借家法に代表される日本固有の法制度といかに整合させるかという課題が残されています。第3回では、日本固有の法的制約の分析をとおして、時代価値の本質を明確にします。

著者

安田 憲治やすだ けんじ

株式会社ボルテックス 主席研究員

一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。塩路悦朗ゼミで、経済成長に関する研究を行う。 大手総合アミューズメントメント企業で、統計学を活用した最適営業計画自動算出システムを開発し、業績に貢献。データサイエンスの経営戦略への反映や人材育成に取り組む。

現在、株式会社ボルテックスにて、財務戦略や社内データコンサルティング、コラムの執筆に携わる。多摩大学サステナビリティ経営研究所客員研究員。

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