インフレ下の新常識‐なぜ安定がリスクに変わるのか

目次

はじめに‐インフレ定着による判断基準の転換

2024年の日本経済は、構造的な変化を示しました。日本労働組合総連合会(連合)が同年7月3日に公表した最終集計によれば、平均賃上げ率は5.1%と33年ぶりの高水準に達しました。また、日本銀行は同年3月19日にマイナス金利政策の解除を決定しました。

賃金と金融政策における一連の動きは、一過性のニュースではありません。30年続いたデフレの終焉を告げ、資産運用の前提を根底から覆す変化が始まったことを意味します。

そのため、不動産投資における判断基準を全面的に再構築する必要があります。デフレの時代に有効とされた前提に基づく判断が、インフレが常態化する経済環境では、資産を危険にさらす判断へと変質するためです。

本連載では4回にわたり、新しい時代に適応するための分析枠組みとして『資産価値の氷山モデル』を提示します。第1回では、まず旧時代の常識が内包するリスクを、歴史、データ、経済理論を用いて分析します。

1. 名目と実質の乖離‐インフレがもたらす実質価値の誤認

まず、物価上昇が一時的な現象ではなく、日本経済の恒常的な前提条件となったことを、客観的なデータが示しています。総務省統計局が公表する消費者物価指数のうち、生鮮食品を除く指数であるコアCPIは、日本銀行が目標とする2%を2022年4月から40カ月連続で上回り、2025年7月時点では前年同月比3.1%の上昇となりました。コアCPIの持続的な上昇は、物価上昇が一過性の現象ではなく、経済活動の構造的条件へ変化したと捉えるのが妥当です。

物価上昇の背景には、グローバルな資源価格の上昇やサプライチェーンの再編に加え、国内の経済成長を制約する水準の人手不足を背景とした構造的な賃金上昇圧力があります。物価上昇の背景にある複合的な要因は短期的な金融政策で解消できるものではなく、中長期にわたって日本経済の基調をなしていくと考えるのが合理的です。

到来したインフレの新しい日常は、キャッシュフローを生み出す収益不動産の価値に、遅れて表面化する深刻な影響を及ぼします。その影響を理解する鍵は、名目と実質という2つの概念の違いにあります。

名目とは、日常的に目にする額面の金額です。実質とは、額面の金額で実際にどれだけの財やサービスが買えるか、すなわち購買力を意味します。名目価値と実質価値の乖離幅はインフレ率によって決まり、額面の金額である名目価値を物価水準で調整することで、購買力である実質価値を算出できます。

デフレ期はインフレ率がほぼゼロだったため、名目値だけを見れば足りました。しかし、インフレという新しい日常が到来した今、実質価値を判断基準としなければ、資産の実質価値の低下に気付きにくくなります。

2. 固定賃料が内包する実質価値の毀損リスク‐購買力低下と費用増加の二重構造

それでは、インフレが固定賃料の不動産に及ぼす具体的な影響について考察します。物価が毎年2%のペースで上昇し続けた場合、現在の100万円が持つ購買力は、10年後には実質的に約82万円の価値まで低下します。これは、名目上の金額は100万円のままでも、実際に購入できる財やサービスの量が約18%失われることを意味します。

さらに、インフレの影響は賃料収入の実質価値低下にとどまりません。なぜなら、賃料収入から差し引かれる運営経費や、将来の大規模修繕費もまた、物価や人件費の上昇にともない増加するためです。三井住友トラスト基礎研究所は、一般物価が2%上昇する局面では、不動産オーナーが純営業利益の実質価値を維持するために、物価上昇率を上回る2.7%の賃料引き上げが必要になると試算しています。

名目価値と実質価値の乖離がもたらす経済的帰結は、歴史的事例から学ぶことができます。第2次世界大戦後の日本では、深刻なインフレを抑制する目的で導入された「地代家賃統制令」により、賃料が低い水準に固定されました。結果として、名目上は安定した収入を得ていた地主・家主層の多くが、保有資産の実質的な収益を大幅に圧縮される事態に直面しました。

日本の歴史は、政策によって強制された名目上の安定が、実質的な経済的損失をもたらしうるという教訓を示しています。現在の緩やかなインフレが、当時ほどの極端な事態に至る可能性は低いものの、名目収入が固定される一方で費用が物価に連動して増加し、実質収益を圧迫する構造は同一です。インフレ下で固定賃料の契約を継続する行為は、実質価値の毀損を容認する経営判断に等しいと結論づけられます。

3. 高利回りの解釈‐情報の非対称性とリスクプレミアムの識別

地方の不動産へ投資し、より高い利回りを追求する戦略もまた、デフレの時代には有効とされた判断基準でしたが、インフレが常態化する現代においては資産を危険にさらす選択へと変質しています。

「同じ投資額であれば、より多くのキャッシュフローを生む地方の高利回り物件が優れている」という通念は、一見すると合理的に聞こえます。しかし、高利回りを優先する判断には経済学の基本原則が見落とされています。2001年にノーベル経済学賞を受賞したジョージ・アカロフが論証した「レモンの市場」、すなわち情報の非対称性に関する理論は、問題の構造を解き明かします。

情報の非対称性とは、売り手は商品の欠陥を知っていても、買い手はそれを完全には見抜けないという情報の格差です。

情報の非対称性を不動産市場に適用すると、なぜ地方の高利回り物件が存在するのかが見えてきます。多くの場合その高い利回りは、市場が物件の価格に織り込んでいる隠れたリスクに対する対価、すなわちリスクプレミアムです。

ここでいうリスクとは、将来の人口減少による需要の減退、地域経済の停滞によるテナントの支払い能力の低下、そして決定的な要因となる売却希望時に売却できない流動性の欠如です。

高利回りは割安を示す根拠ではなく、「何らかのリスクが存在する」という市場からのシグナルと解釈するのが妥当です。

金融の基本原則は「リスクとリターンはトレードオフの関係にある」というものです。もし仮に安全で高利回りの優良物件が存在するのであれば、情報に敏感なプロの投資家が瞬時にそれを買い占めるため、利回りは速やかに適正水準まで低下するはずです。

対照的に、東京の優良オフィスの利回りが低いのは、欠陥があるからではありません。むしろ、東京の優良オフィスが持つ高い流動性と将来性に対し、市場が低いリスクプレミアムを適用した結果です。低いリスクプレミアムの適用は、市場参加者が潜在的リスクを取引上無視できる水準と評価していることを示しています。

結論‐旧来の価値基準の放棄

30年続いたデフレの時代は終わり、インフレ環境へ移行しました。到来した新しい経済環境において、これまで一般に信じられてきた「安定収入」や「高利回り」といった従来の前提は有効性を失いつつあります。

デフレ時代には合理的であった旧来の常識を手放すことには、心理的な抵抗や葛藤がともなうはずです。しかし、旧来の常識を手放す困難に向き合うことこそ、経営者や投資家として、新しい時代への適応が始まった確かな兆しです。

資産の実質的価値を見出すには、従来とは異なる新たな価値基準が必要です。本連載では、真の価値を見出すための分析枠組みとして『資産価値の氷山モデル』を提唱します。

『資産価値の氷山モデル』は、不動産の価値を、海面上に現れた氷山の一角、すなわち利回りや立地といった目に見える「即物価値」のみならず、海面下に隠された巨大な価値の本体である「契約価値」と「時代価値」という3つの層で立体的に捉え直す思考法です。

第2回は、海面下の第2層である契約価値を詳しく検討します。

著者

安田 憲治やすだ けんじ

株式会社ボルテックス 主席研究員

一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。塩路悦朗ゼミで、経済成長に関する研究を行う。 大手総合アミューズメントメント企業で、統計学を活用した最適営業計画自動算出システムを開発し、業績に貢献。データサイエンスの経営戦略への反映や人材育成に取り組む。

現在、株式会社ボルテックスにて、財務戦略や社内データコンサルティング、コラムの執筆に携わる。多摩大学サステナビリティ経営研究所客員研究員。

研究員コラムの一覧に戻る
  • 本記事に記載された情報は、掲載日時点のものです。掲載されている情報は、予告なく変更されることがありますので、あらかじめご了承ください。
  • 本記事では、記事のテーマに関する一般的な内容を記載しており、弊社では何ら責任を負うものではありません。資産運用・投資・税制等については、各記事の分野の専門家にお問い合わせください。

関連記事

Recommend