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「ひよ子」らしさを守りながら新たなブランド価値を創出
【株式会社ひよ子 代表取締役社長 石坂 淳子氏】

目次

ふっくらとしたフォルムの薄皮に、やさしい甘さの黄味あん。創生110年を超える「名菓ひよ子」は、福岡と東京という2つの地域の銘菓として愛されてきたお菓子です。「ひよ子」を生んだのは、1897(明治30)年に福岡県で創業した株式会社ひよ子。バブル崩壊後は長い低迷期を迎えるも、2009年に5代目社長に就任した石坂淳子氏が、経営改革や新商品開発に尽力して復活へと邁進。「大切なのはひよ子らしさ」と語る石坂社長に、企業存続の秘訣を伺いました。

お話を聞いた方

石坂 淳子氏いしざか あつこ

代表取締役社長

福岡県朝倉市出身。筑紫女学園短期大学国文科卒。子育ての経験を生かして児童遊戯施設「ひよ子ランド」の企画・運営に携わり、1997年10月に株式会社吉野堂取締役に就任。2002年8月に株式会社ひよ子監査役、同年11月に株式会社東京ひよ子監査役、2006年11月に株式会社ひよ子および株式会社東京ひよ子常務取締役を歴任。2009年11月、現職に就任し事業再生に尽力。2012年には「名菓ひよ子創生100年記念事業」を手がけた。(http://www.hiyoko.co.jp/index.html

人々の健康を支え笑顔を生んだ筑豊の「名菓」

創業は1897年、初代・石坂直吉が筑豊飯塚(福岡県飯塚市)に菓子舗「吉野堂」を開いたのが始まりです。当時の筑豊は石炭産業でにぎわい、甘いお菓子は炭鉱で働く人たちの心身を癒やすものでした。

「名菓ひよ子」が誕生したのは1912年のこと。考案したのは、わずか14歳だった2代目の石坂茂です。子どもたちも喜ぶお菓子を作りたいと考えていた茂は、ある夜、夢の中で愛らしいヒヨコに出合い、「これだ!」と直感して開発に没頭したそうです。ころんとしたかわいいフォルムは、少年の心と青年の知恵を併せ持つ2代目の熱意の賜物。薄皮に包まれた黄味あんには、卵が滋養食だった時代の、子どもの成長と大人の健康を支えたいという思いが込められていました。売り出すとすぐに評判となり、地元の人たちだけでなく、炭鉱に商用で訪れる人々がお土産として購入する筑豊の名物となりました。

ところが、第2次世界大戦後、燃料の主役が石炭から石油に移行にするにつれて筑豊は陰りを見せ始めます。そこで3代目の石坂博和は、1956年に九州随一の繁華街である博多・天神に進出。さらに、まだ創生期だったテレビCMをはじめ、電車広告や野立て看板などで積極的に宣伝しました。一般的には「銘菓」とするとこ ろ、「有名になるように」と「名菓」を冠したのも3代目のブランド戦略です。その効果は絶大で、ひよ子は福岡を代表するお菓子として知られるようになったのです。

女性視点の経営で低迷期からの脱却を目指す

1964年には、40歳で早世した2代目の夢だった東京への進出を果たしました。今ほど輸送インフラが整っていない時代ですから、まずは製造工場を建設。ところが、東京は筑豊よりも乾燥しているため、同じ原材料でも仕上がりが微妙に異なってしまいます。理想の味を追求した結果、東京のひよ子は福岡よりもふんわりと焼き上げることに。実は福岡のひよ子のほうが少しスマートなんです。そして福岡ではなく“東京名菓”としたのは、人の往来が激しい東京のほうがより広く知っていただけるだろうと考えたため。今では時折「ひよ子は福岡名物か、東京名物か」という論争が起こっていますけれども、その裏にはこうした経緯がありました。

しかしながら、企業は「成長期」「安定期」「衰退期」を繰り返していくもの。私の夫である石坂博史は安定期の中で4代目に就任しましたが、ほどなくしてバブルが崩壊。社会が大きく変化し、当社も低迷の時代を迎えました。東京支社を分社化して経営効率を高めたり、企業イメージ向上に取り組んだりする中、専業主婦だった私が関わるようになったのは、メセナ活動の一環として1990年に児童遊戯施設「ひよ子ランド」をオープンしたことがきっかけ。子育ての経験を生かして企画運営の一部を担うというものでした。

しばらくは手伝う程度でしたが、2006年に常務として本格的に経営に加わり、2009年には5代目社長として会社の舵を取ることに。不安はあったものの、家庭を守ることも、家業を守ることも意識的には同じ。何より会長になった夫が「女性の視点で会社を見直すことが必要だ」と背中を押してくれて覚悟が決まりました。

「ひよ子」を通じて子どもの未来を支える企業になる

常務から社長に就任した頃は低迷期から抜け出せず、赤字が続いていたため、私はまず「再生5カ年計画」を打ち出しました。組織の歴史が長いと時代に合わない慣習も出てくるものです。中にいるとそのことになかなか気づけませんが、外にいた私には疑問に思うことがありました。社会が変わったのなら、企業も変わらなければならず、そこを修正していくことが私の務めでした。

再生計画では店舗、工場、商品、営業、人材の5つの柱を立てました。まず着手したのは不採算店の整理と点在する工場や事業所の集約化。コストを削減することで、1年で赤字を解消しています。営業力と人材育成については社外研修や理念の徹底を強化しました。

最も注力したのは商品開発です。大切にしたのは「ひよ子」という核を守ること。例えば、新商品第1弾の「ひよ子のピィナンシェ」はヒヨコの形をしたフィナンシェ。ひよ子らしさを追求しながら、時代に合ったものを展開することで、ひよ子のブランド価値を高めることが、当社が復活するための一番の道筋だと考えたのです。

ひよ子創生100周年となる2012年には、「季(とき)ひよ子」を発売しました。桜あんの「桜ひよ子」など、福岡限定かつ季節限定で展開する商品です。実は、それまで社内では「ひよ子」そのものの味や形に手を加えることはタブーとされていました。いわゆる“元祖ひよ子”は100年以上前の姿と味を守っています。「ひよ子を食べると子どもの頃を思い出す」などと言っていただけることが私たちの喜びであり、ひよ子そのものはこれからも変わらないと思います。一方で社の企業理念に「お菓子は生きものであり、味は無限である」とあるように、ひよ子らしさを守りながら創造的な部分もあっていいはず。おかげさまで季ひよ子は人気商品となっています。

創生100周年においては、自社農園「ひよ子農園」も開園しています。店舗名である「ひよ子本舗𠮷野堂」の文字は3代目のときに「吉」から「𠮷𠮷」に変更しているのですが、これは「大地に根ざした菓子作りをしたい」という思いによるもの。その思いを受け継ぎ、農園で栽培した甘夏やイチジクをさまざまな商品に使っています。また、福岡・天神にカフェを併設した「かやしなショップ」とギャラリーをオープンしたのも100周年記念事業の一環です。近年は、ひよ子をかたどった移動販売車「はっぴよカー」で出張販売も実施。インターネットで物が買える時代だからこそ、カフェや出張販売でお客様とのコミュニケーションを取る場をつくることが大切だと考えています。

私たちは先達の思いを受け継ぎ、「ひよ子を通じて日本、そして世界の子どもたちの未来を支える企業でありたい」という理念から、「ひよ子は“日世子”」であるとしています。2023年には健康的な生活を応援する「ウエルネスひよ子」プロジェクトを始動。アレルギーの方でも食べられるよう、九州産の米粉などを使った3大アレルゲンフリーのお菓子を展開しています。 これからも時代は大きく変化していくことでしょう。その時流の中で私たちは「ひよ子」という核を守りながら、時代に共感されるものを新たに発信していく。変わらず守るものと変えるものの両方を大切にしていくことが、間もなく創業130年となる歴史と伝統を次世代へとつないでいくための秘訣だと思っています。

[編集]株式会社ボルテックス コーポレートコミュニケーション部
[制作協力]株式会社東洋経済新報社

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