時代価値の証明‐日本の法が本質的な資産を選別する

目次

はじめに‐法が選別する時代価値

第2回で論じた「契約価値」は、インフレを収益に変える有効な仕組みです。しかし、契約価値の設計と運用は、日本の法制度、特に借地借家法の枠組みと整合してこそ、持続可能な戦略として機能します。

したがって第3回では、法制度と契約価値の整合性という、本連載で提示する戦略の妥当性を問う中心的な課題を検証します。法と契約の関係性を具体的に明らかにすることで、『資産価値の氷山モデル』の最深層に位置する「時代価値」の核心に迫ります。

日本の不動産法制は、一見すると長期投資の障害とみなされがちですが、そうではありません。むしろ、契約と資産に厳格な要件を課すことで、長期的に価値を維持できる資産だけを選び出す、効果的な選別機能として働きます。

1. 時代価値の定義‐構造変化を乗り越える100年の永続性

まず、本連載で定義する最終的な論点である時代価値を明確化します。『資産価値の氷山モデル』では、海面上の領域を「即物価値」と捉え、海面下に広がる層を契約価値と時代価値として位置づけます。時代価値とは、即物価値と契約価値を根底で支える、資産の永続性そのものを指します。

時代価値は、経済のサイクル、技術の変革、そして法制度の改正といった構造的な変化を乗り越え、100年という時間軸の中でも価値が持続する、資産に内在する強靭さです。

日本は、創業100年を超える企業が世界で最も多い国です。日本で事業の永続性を追求する経営者にとって、自社の貸借対照表に計上する資産が、時代価値を備えているか否かは、企業の未来そのものを左右する経営の根幹に関わる問いといえるでしょう。

2. 日本の法的現実‐借地借家法第32条という強行規定

時代価値を語るうえで、日本の不動産契約を規定する借地借家法の存在は、検討が必須の論点です。特に、借地借家法第32条に定められた賃料増減請求権は、本連載で提示する戦略にとって主要な制約要因と捉えられがちです。

借地借家法第32条は、経済事情の変動などによって賃料が不相当となった場合、当事者の一方が将来に向かって賃料の増減額を請求できる権利を認めています。

同条の規定は、普通借家契約においては、「賃料は改定しない」「物価に連動して自動的に改定する」といった契約上の合意があったとしても、なお適用されます。そして、賃料増減請求権は当事者の合意によっても排除できない強行規定と解釈されています。

借地借家法第32条が強行規定であることの帰結は、第2回で論じた契約価値の仕組み、すなわちコアCPI連動条項のような自動改定特約が、絶対的な効力を持つわけではないという厳然たる事実です。

仮にインフレ率3%への連動を契約で定めていても、テナント側が「近隣相場や自社の経営状況に鑑みて不相当である」と主張し、最終的に司法の場で認められれば、契約通りの増額は実現しません。

契約の絶対性が法的に保証されないという現実を前にすれば、「日本で物価連動など非現実的だ」という意見が出てくるのも当然といえます。

しかし、表面的な理解で思考を止めてしまっては、本質を見誤ります。一見するとオーナーに不利に見える借地借家法第32条こそが、逆説的に時代価値のありかを指し示しています。

3. 逆説の証明‐法的制約が選別する代替不可能な価値

契約の絶対性が法律によって制約を受けるという日本特有の事業環境は、不動産オーナーに、契約書の文言だけでは乗り越えられない、より長期的かつ多面的な戦略を要求します。

契約が絶対ではないからこそ重要となるのが、テナントとの強固な信頼関係の構築です。

代替不可能な場所の価値は、テナントの意思決定に強く作用します。代替不可能な場所で事業を継続したいというテナントの強い動機こそが、経済実態に即した公正な賃料改定を受け入れる基盤となり、オーナーとの揺るぎない信頼関係を育みます。

例えば、ある地方都市の代替可能なオフィスビルに入居しているテナントに対し、コアCPIの上昇を理由に賃料の増額を求めたとします。テナントは事業がそれほど好調でなければ、近隣のより安価な物件へ移転します。法的な権利を主張するまでもなく、テナントの移転という市場原理がオーナーの戦略を頓挫させます。

一方で、東京の都心、例えば丸の内や大手町に本社を構える企業にとって、その住所は単なる物理的な所在地ではありません。企業の信用力、ブランドイメージ、そして優秀な人材を惹きつけるための、事業の根幹をなす戦略的資産です。

東京の都心に本社を構える企業は、特段の事情がない限り、その場所から離れようとしません。

このような代替不可能な場所の価値を持つ不動産において初めて、オーナーとテナントは目先の利害を超えた長期的なパートナーとして、経済実態に即した公正な賃料改定について建設的な対話を行うことができるのです。

つまり、借地借家法第32条の法的制約は、結果として、代替可能な汎用不動産と、代替不可能な戦略不動産とを選別する機能を果たします。表面的な契約テクニックが通用しないからこそ、資産そのものが持つ代替不可能な価値、すなわち時代価値の有無が、より直接的に問われることになります。

借地借家法第32条の存在は、コアCPIに連動する条項をはじめとする物価連動条項の価値を無効にするものではありません。物価連動条項の価値は、法廷での強制力のみにあるのではなく、平時における賃料改定交渉の起点を客観的指標に基づき設定する点にあります。これにより、恣意的な交渉コストを削減し、双方の予見可能性を高めることができます。

司法(裁判所)が介入するのは、あくまで契約条項に基づく改定結果が経済実態から著しく乖離した例外的な状況に限られ、契約が持つ平時のガバナンス機能を損なうものではありません。

4. 公正な契約という競争戦略‐予見可能性の提供とリスク分担による信頼の構築

テナントとの信頼関係の構築は、抽象論にとどまるものではありません。テナントへの配慮を、自社の資産価値を最大化するための体系的な競争戦略として明示的に位置づけるという、経営的な判断が求められます。

第2回で述べたとおり、適切に設計された「規律ある定期見直し」は、テナントにとっても経営の予見可能性を高める価値を提供します。最も優秀な企業ほど、規律ある契約を提示できる賢明なオーナーを長期的なパートナーとして選ぶ傾向にあるため、公正な契約を提示する行為自体が、優良なテナントを惹きつける競争優位性に繋がります。

さらに、デフレへの回帰というリスクシナリオにも、公正な契約思想は論理的な答えを用意しています。合理的に設計された公正な契約は、リスクを双方向で分担します。インフレ局面での上昇だけでなく、デフレ局面では客観的指標に沿って賃料が下落する下方連動の仕組みが、テナントに対する公正さの証明となります。

さらに、過度な下落が相互の事業継続性を脅かすリスクを回避するため、賃料の下限として機能するフロア条項を設ける設計こそ、長期的な信頼を確かなものにします。時代価値を持つ資産のオーナーには、リスクを直視し、対応する設計思想を明示する誠実さが求められます。

5. 契約価値を実現する法的手段‐定期借家契約と予見可能性の向上

日本のオフィス市場では、依然として更新が原則とされる普通借家契約が主流です。もっとも、前述のとおり普通借家契約下においても物価連動条項は、賃料改定交渉の起点を客観的に示すという、平時における実効的なガバナンス機能を発揮します。

2000年に導入された定期借家制度は、平時のガバナンス機能を一段と強化し、契約の予見可能性を飛躍的に高める、より実効的な戦略的選択肢です。

日本の建物賃貸借契約には、原則として更新される普通借家契約と、期間満了で契約が終了する定期借家契約の2種類があり、両者の間には賃料改定ルールに関する法的な効力の違いがあります。

普通借家契約では、たとえ契約書に「賃料は改定しない」とあっても、オーナーとテナントは経済状況の変化を理由に、借地借家法第32条に基づき相手方の合意がなくとも賃料の増減を請求する権利を有します。

しかし、定期借家契約では、借地借家法第38条第7項の規定により、「賃料の改定に係る定め」という賃料改定特約を置くことで、借地借家法第32条の適用を法的に排除することが可能です。例えば「賃料はコアCPIに連動して改定する」といった合意が法的に担保され、確定的な効力を持つため、契約の予見可能性は大きく高まります。

合意内容が法的に尊重されるという予見可能性を活用すれば、規律ある賃料改定を安定的に運用する道が開かれます。具体的には、契約期間中は合意済みのルールに基づき賃料を改定し、自動更新のない契約満了時を、それまでの改定履歴を客観的な資料としたうえで、最新の市場実勢を反映した再契約協議の機会とするという2段階の運用が有効です。

ただし、契約形態の選択だけで成果が保証されるわけではありません。提示した2段階運用が効果を発揮するための大前提は、運用対象となる不動産が持つ代替不可能な場所の価値です。場所の価値が乏しい資産で定期借家契約を適用しても、期間満了ごとにテナントが退去する空室リスクの高まりに直面し、定期借家契約の利点を享受できません。

テナント側が「たとえ公正なルールで賃料が上がっても、この場所で事業を続けたい」と強く望むほどの代替困難な場所の価値があって初めて、オーナーとテナントは長期的なパートナーとして建設的な対話に臨めます。

本連載が提示する主張の核心とは、代替不可能な場所の価値こそが、契約価値の安全な作動を担保し、定期借家契約という法的手段に実質的な価値を付与するという点にあります。

結論‐信頼の実装とテクノロジー活用の必然

第3回では、時代価値の成立要件を検証しました。時代価値とは、表層的な経済合理性のみでは測れません。日本固有の法的現実に加え、そこで育まれる人間的な信頼関係をも統合して初めて、長期的な持続可能性として成立します。

東京の優良オフィスは、まさに時代価値を備えた、日本市場における代表的かつ有力な資産と評価できます。

しかし、第3回で論じた信頼関係の構築には、実務上の課題が残されています。物価連動による賃料改定を実施する際、運用面での透明性をいかに確保するかという点です。最終回となる第4回では、まず新リース会計基準が迫る「保有の決断」を論じ、次に、契約運用の透明性を確保する技術的な解決策を提示します。

著者

安田 憲治やすだ けんじ

株式会社ボルテックス 主席研究員

一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。塩路悦朗ゼミで、経済成長に関する研究を行う。 大手総合アミューズメントメント企業で、統計学を活用した最適営業計画自動算出システムを開発し、業績に貢献。データサイエンスの経営戦略への反映や人材育成に取り組む。

現在、株式会社ボルテックスにて、財務戦略や社内データコンサルティング、コラムの執筆に携わる。多摩大学サステナビリティ経営研究所客員研究員。

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