「正しい商売」を貫き、社員全員が思いやり合いながら日々の困難に立ち向かい続ける【株式会社ホテルかずさや 代表取締役社長 工藤 哲夫氏】

目次
東京・日本橋で「心和む暖かいおもてなし」をモットーとした安全、清潔、快適なサービスを提供しているホテルかずさや。1891(明治24)年に開業し、時代の変化に合わせて旅館からビジネスホテルへと業態を変えてきました。社会情勢や景気変動の影響を受けやすい宿泊業界で、130余年にわたって暖簾を守り続ける秘訣はどこにあるのでしょうか。四代目代表の工藤哲夫氏にお話を伺いました。
二度の焼失に戦争、高度成長期とさまざまな変化に対応し続けて
ホテルかずさやは、1891年に「上総屋旅館」として開業しました。初代の工藤由郎は信州の丸子、現在の長野県上田市の出身です。明治時代の主力輸出商品だった絹製品のもととなる養蚕に関わり、蚕の卵を植え付けた蚕紙を養蚕農家へ販売する事業をしていました。おそらくは全国を回り、宿泊業に関心を持ったのでしょう。1887年に上京するも適当な物件がなく、二度目に上京した1891年に、営業中だった旅館の亭主から売却の話を持ちかけられて買い取りに応じました。丸子で築き上げた財産をすべて処分したと聞いています。そのとき由郎は27歳でしたから、相当な覚悟だったと思います。
退路を断って旅館の経営に取り組んだ初代でしたが、二度にわたって建物が焼失するという困難に直面しています。最初は開業から11年の1902年にもらい火で、二度目は1923年9月の関東大震災によるものでした。
建物がなければ旅館は営業できませんから危機的状況ですが、いずれも翌年とスピーディに再建を成し遂げ、営業を再開しています。初代がどのような気持ちで取り組んだのかはわからないですが、宿泊業にかける強い思いと、困難に臆せず立ち向かう姿勢を持っていたのではないかと思っています。
この姿勢は、二代目以降も受け継がれていると感じます。二代目の誠一は太平洋戦争で3年にわたって休業を余儀なくされ、私の父である三代目の誠太郎は戦争に行って帰ってきてから経営に携わり、1950年代後半から1970年代前半の高度成長期を経験しています。
実は高度成長期は、旅館にとっては逆風でした。なぜなら畳の部屋が複数ある旅館のスタイルは、お一人で宿泊されるビジネス利用のお客様が多い都心部の宿泊施設にはそぐわなくなっていたのです。
そのため、かつては旅籠(はたご)の一大集積地として栄えた日本橋から旅館は急速に減っていきました。多かったのが、貸ビル業への転身です。従業員を雇用して日々手間暇をかけるよりは、という気持ちになったのでしょう。
ところが三代目は、宿泊業として生き残ることを選びます。私が覚えているのは、「貸ビル業はどんな商売なのかわからない。宿屋のことはよくわかっているから、私は宿屋をやるしかない」という言葉です。でも、従来の旅館スタイルでの営業には限界を感じていたため、ビジネスホテルへの業態転換を決断しました。それが1980年のことです。
フルリニューアルにコロナ禍が直撃し、一時は事業譲渡も覚悟する
私はそのとき、すでに社会人となっていました。いつかは家業を継ぐのだろうという思いもあり、就職先には旅行代理店を選びました。実は三代目の父も、家業に入る前は別の会社で働いていましたので、外の世界を知るのは大切だろうと思いましたし、いろいろ見てみたいという気持ちもありました。実際、13年間余りお世話になる中で、海外を含めさまざまなホテルに宿泊したことは、非常に役立っていると感じています。
家業に入ったのは、1989年です。それからバブル崩壊を迎え、リーマンショックが起き、東日本大震災が発生と何度も危機がありました。いずれも乗り越えるのに苦労しましたが、桁違いに大変だったのが、2020年からのコロナ禍です。フルリニューアルと時期が重なったことも追い打ちをかけました。東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まったこともあって、一大決心をして2018年に営業を休止し、旧施設をすべて解体して新たな建物を建てたんです。ところが、まもなく竣工するという2020年3月にオリンピックは延期が決まり、4月には緊急事態宣言が出されました。6月に竣工して7月に営業を開始しましたが、まだ世界中の動きが止まっている状況でした。
考えてみれば、全世界が動きを止めたのはおそらくそれまでになかったことで、影響の大きさは経験したことのないものでした。3年間は計画の10分の1くらいの売上しかなく、一時期は事業譲渡も真剣に検討したほどです。
とりわけ苦労したのは、銀行の融資です。新たな建物を建てるために借り入れたもので、コロナ禍真っ只中のリスケには応じてくれたのですが、当初予定していた長期借入金への切り替えがなかなか進みません。2023年になって回復の兆しが見え、2024年に上向いたことでようやく切り替えができましたが、胃の痛くなる日々でした。
ただ、創業当初の建物焼失もそうですが、ずっと順風満帆ということはないわけです。とくに宿泊業は社会情勢や景気変動の影響を受けやすく、悠長に構えていてはやっていけません。望ましくない事態が起こるのは当たり前と考えていますし、毎日が決断の連続です。「明けぬ夜はなし、止まぬ雨はなし」と言い聞かせて日々できることに取り組んできました。
「日本橋」ならではの粋な設(しつら)えやサービスで、さらなる進化を
フルリニューアルに踏み切ったのは、時代のニーズに応える新たなホテルの姿とサービスのあり方を追求したいという思いがあったからです。
例えば、設えは「日本橋のホテル」を強く意識しました。客室の壁紙には、江戸時代の町人が編み出した染色のバリエーションである「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)」を使い、さりげなく江戸小紋の柄を入れて落ち着き感と粋を表現しています。都心部では珍しい大浴場を設置し、レストランをあえて自社運営にしたのにも、創業精神である「心和む暖かいおもてなし」を込めています。好評をいただいている「和朝食」は旅館を出自とするホテルとして、あえてバイキングではなく定食スタイルとしています。効率だけを重視せず、いかにお客様に満足いただけるかを今後も考え続け、実践していきたいと考えています。
また、フルリニューアル以来実践しているのが、チームビルディングを目指した社内研修です。遊びながら思いやりとリーダーシップを高められる「アチーバス」というボードゲームに全員で取り組むことで、一人ひとりの能力や個性を最大限に発揮し、成果を上げられる組織づくりをしています。
「長寿企業の理由は何か」とよく聞かれますが、私は社員や親族が仲良くあること、そして「正しい商売」をすることだと思っています。「アチーバス」を研修に取り入れたのもそうですが、お互いを思いやることがやはり重要ですし、逆に、組織内で対立をしていたら到底うまくいきません。私どものように家族で承継してきた場合はなおさらです。いまだに、長野の親族やその周囲の人たちは、東京に来るとき立ち寄ってくれますが、そうしたつながりを大切にし続けることが、企業として長続きする源泉になっているのではないかと思っています。
[編集]株式会社ボルテックス コーポレートコミュニケーション部
[制作協力]株式会社東洋経済新報社

- 本記事に記載された情報は、掲載日時点のものです。掲載されている情報は、予告なく変更されることがありますので、あらかじめご了承ください。
- 本記事では、記事のテーマに関する一般的な内容を記載しており、弊社では何ら責任を負うものではありません。資産運用・投資・税制等については、各記事の分野の専門家にお問い合わせください。