次の100 年、「介護のいらない社会づくり」
を目指して創業者の発明と追求心が健康の大切さを伝える原点に
【株式会社白寿生科学研究所 代表取締役社長
Hakuju Hall 支配人 原 浩之 氏】
目次
家庭でも使われる交流式の電気を用いた電位治療器を昭和中期から製造・販売する白寿生科学研究所。3代目(家業として)でもある原浩之氏は、祖父が発明した主力商品を「かけがえのない機械」と語ります。企業経営において避けられない法律や規制などの行政リスクに繰り返し阻まれながらも、販売手法を工夫しながら成長を続けてきました。来年100年の節目を迎える同社がどのように逆境を乗り越えてきたのか、どのように社員やお客様の信頼を獲得してきたのか、お聞きしました。
祖父の信念から始まった家業
白寿生科学研究所は、電位治療器「ヘルストロン」や健康食品などの製造・開発・研究を主軸に、健康情報の発信基地「ハクジュプラザ」を全国に約450店舗展開しています。創業は1925年、当初はレントゲン機器を扱う企業として誕生しましたが、創業者である祖父が、体調が優れず悩む母親のために1928年にヘルストロンを発明しました。以来、「ゆとりある精神、適度な運動、バランスのとれた食事」の三位一体の「白寿健康哲学」に加え、ヘルストロンの治療を通じた、セルフヘルプによる予防の思想である「白寿健康法」をあまねく人類に普及することを使命として、さまざまな事業を展開してきました。
来年には100周年の節目を迎えますが、これまでの道のりは決して順風満帆ではなく、大きな危機にたびたび直面してきました。
第1に、祖父の無謀とも言える行動です。祖父はヘルストロンを世に広めるべく、1950年代半ばにそれまで拠点にしていた九州から家族を置いて東京に出てきました。事業を行いながら論文を書き医学博士となり、1960年代に会社を法人化すると、息子である私の父を社長にして、自分は会長職に就いたのです。男性の平均寿命が65歳だった時代で、祖父はすでに60代でしたから、命がけだったに違いありません。また当時、家庭用医療機器というカテゴリーが日本はおろか世界にもなかったことから、認証の取得に10年間模索したと聞いています。
第2に、全国各地の販売代理店が1980年代前半にかけて、ヘルストロンを模したジェネリック版を販売する同業他社として次々に独立したことです。もともと代理店では商品の機能や特徴をお客様に正確にお伝えできていないケースが生じていたことから、同時期に店舗をすべて直営とする政策が進められました。私は当時まだ学生でしたが、社長だった父がたびたび体調を崩して入院していましたから、相当苦労していたと思います。
自社ビル建設後に経営危機
コロナ禍では風評被害にも遭う
第3に、社会の規範や法律の制約に伴い、さらなるコンプライアンスの強化が必要になったことです。それまでの営業手法を半分否定するようなシフトチェンジに踏み切らなければならず、全国の直営店舗から大きな反発がありました。折しも、渋谷の富ヶ谷に自前の本社ビルを30億円以上かけて建てた直後のことで、3年間で2回、10億円規模の赤字を出しました。
すでに入社していた私は事態を重く見て、自ら営業本部長に志願しました。店長らに頭を下げ、方向転換が必要な理由を説いて回る全国行脚が始まりました。二十数年前のことですが、今思い出しても泣けてくる出来事がたくさんありました。
そして第4が、コロナ禍です。ハクジュプラザは地域の方たちに気軽に訪れてもらえるアットホームな施設であったことから、コロナ禍では稼働を縮小せざるをえませんでした。罹患(りかん)者が訪問していたという理由で1カ月閉鎖したり、罹患者が店の前の道を通ったという理由で、すべてのお客様にPCR検査を受けていただいたケースもありました。こうした対応を取ったために「あの店から罹患者が出た」という風評被害も発生しました。
全国の店長に励ましの電話を入れる日々が続く中、ある店長から、「これまでは300人ものお客様を抱えて、一人ひとりと向き合えなかったが、お客様の数が半分になったので、いつもの倍の時間をかけて接することができるチャンスだ」と逆に励まされる体験もしました。
コロナ禍は収束したといっても、地域によって今もまだ温度差があります。地域性を読み取ることは、コロナ禍に限らずトラブルを回避するために非常に重要ですから、各地の状況を自分の目と足を使って確かめながら、それぞれの店舗に適した展開をするよう努めています。
不測の事態への備えという意味では、同業他社との連携を深め、業界としての危機管理体制を強化することは一つの有効な手段です。その観点から10年ほど前、かつて独立問題がきっかけで没交渉になっていた元代理店各社に、「お互い誹謗中傷せず、呉越同舟でこの業界の存続に努めよう」とアプローチし、歩み寄りを図りました。同様に、比較的スタンドアローンでやってきた弊社にとっては、他業種との連携強化も経営の安定化に向けて今後必要な施策でしょう。
「まさか」に対する免疫力次第で
企業の命運が分かれる
さまざまな問題が山積する現代の日本において、体と心の健康の追求は立派な社会課題です。ヘルストロンを発明した当時、祖父は「この発明は100年早かった」と言っていたそうですが、多くの国で少子高齢化が進み、健康寿命という考えが広く浸透した現代に、ヘルストロンに込められた願いは時代を超えて通じると思っています。
弊社にとっては、お客様の健康を考え、末永く寄り添う存在であり続けることが重要です。ご購入いただいたヘルストロンをご自宅にお届けしたその日から、弊社が提唱する「白寿健康法」によってお客様とご縁が結ばれることが理想であり、お別れの儀式、つまり売って終わりになることがあってはなりません。
しかしながら多数の直営店の運営を長く続けていると、店長の引退などの理由による店舗の閉鎖・撤退は一定数発生します。そのような場合に、お客様との接点を失わないためのランドマーク機能としても、本社ビルを富ヶ谷に構えたことには、大きな意味があります。
本社ビルには、クラシック音楽に特化したコンサートホールを併設しています。私自身がビオラとバイオリンを演奏することもあり、学生時代にオーケストラ団体を学生責任者としてまとめていたという経緯もありますが、弊社が掲げる白寿健康哲学の一つ「ゆとりある精神」の体現の場でもあります。
次の100年も弊社が存続していくために、B to Bの強化、若い世代に向けた情報発信など、さまざまな形での事業展開に挑戦していきます。もう世襲でやる規模ではない、必ずしも株主が社長である必要はないという思いもあります。単なる医療機器メーカーという枠組みを超えて、健康総合企業として幅広く世界の人々の健康に貢献し、「健康産業といえば白寿」と世の中に認知してもらうのが、私の目指すところです。
アニバーサリーイヤーに先駆けて今年、「白寿が白寿(99歳)になりました」と銘打ったキャンペーンを実施しています。来年以降、ヘルストロンの100周年記念モデルの販売や、インテリア要素を追求したスタイリッシュなヘルストロンの展開なども予定しています。
どんなにまっとうに事業に向き合っても、5つ目、6つ目の危機がこれから起きるでしょう。日頃から、「また何か起きるに違いない」くらいの気持ちで構えています。行政リスクや災害リスクを、完全に回避することはできません。よく言われる経営の3つの坂「上り坂・下り坂・まさか」のうち、経営者が最も備えるべきなのは「まさか」です。企業体力のうえでも、経営者の精神面においても、「まさか」に対してどれだけ免疫の力を持っているかが、企業の命運を分けると思います。
[編集]株式会社ボルテックス コーポレートコミュニケーション部
[制作協力]株式会社東洋経済新報社