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極地で必要なのはメンタルでも勇気でもない
北極冒険家に学ぶ、リスクとの向き合い方

目次

海外渡航や本格的な登山の経験もないまま北極に魅せられ、2000年に初めて現地に降り立った荻田泰永氏。

以来16回も、単独行による北極冒険に挑戦してきました。その活動はさまざまなメディアで注目され、多くの企業がその活動を支援しています。

一つ間違えば死につながる冒険の中で、どのように意思決定をし、リスクと対峙したのでしょうか。

企業経営にも通じる、冒険の本質と教訓を伺いました。

お話を聞いた方

荻田 泰永氏おぎた やすなが

北極冒険家

日本唯一の北極冒険家。1977年生まれ。カナダ北極圏やグリーンランド、北極海を中心に、主に単独徒歩による冒険行を実施。2000〜2019年の間に16回の北極行を経験し、北極圏各地を10,000km以上移動。2018年、南極点無補給単独徒歩到達に成功(日本人初)。「植村直己冒険賞」受賞。2021年、神奈川県大和市に「冒険研究所書店」を開業。TBS「クレイジージャーニー」、WOWOW「ノンフィクションW」など、メディア出演多数。著書に『北極男 増補版』(山と溪谷社)、『考える脚』(KADOKAWA)などがある。

自然の脅威より厄介な人間の感情というリスク

人間社会と自然界では、どちらがより危険でしょうか。私は、人間社会のほうが圧倒的にリスクが高いと思っています。

自然の脅威のインパクトは多大で、場合によっては死に直結しますが、危険の種類の多さでいえば、人間社会のそれは自然界の比ではありません。

北極には陸地がなく、歩くのは海上に漂う氷の上です。常に危険と隣り合わせですが、その種類は寒さ、氷、風、シロクマなどごく限られています。しかもあらゆる事象が、物理法則に則って起こります。いつ起こるのかはわからなくても、想定と準備ができていれば回避できます。

一方、人間社会では用心しなければならない要因は膨大です。さらに複雑なのは、社会が人間の感情で動いていることです。人間の感情には物理法則は通用せず、動きを想定することができません。

私が冒険中に感じる「恐怖」も、厄介な感情の一つです。周りに誰一人いない北極海で恐怖に襲われ、子供のように泣いてしまったことがあります。ところが10分か15分か激しい感情を吐き尽くすと、泣いていたのが嘘のようにスッキリしたのです。代わりに、別の恐怖が残りました。前者は感情に基づく「主観的な恐怖」、後者は理性に基づく「客観的な恐怖」です。

主観的な恐怖が厄介なのは、この氷を踏み抜いたらどうしよう、落ちたら死ぬかも、苦しむかも、残してきた家族はどうなるだろう…と、一つの恐怖が想像を生み次の恐怖を生むループに陥ってしまうことです。

経験を積んだ今は、冒険中はほとんど無意識に、この主観による恐怖に蓋がされ、「今この氷の厚さは7cmだから、これは危ない、乗ったら落ちる」という客観的な恐怖が優位に立つようになっています。そうでないと、北極から生きて帰ってくることができないでしょう。

感情的主観は判断の邪魔になる

人間社会では、安全を確保するためのさまざまなルールや仕組みが機能しています。そして私たちは、「この建物は耐震基準にかなっているから防災対策は何もしなくていい」というふうに、自分の身を自分で守っていないことにあまりにも無自覚なまま、いわば外部システムに依存して、自分の感覚をクローズして生きています。

北極はそのシステムの壁の外にあり、身を守るすべは、すべて自分の中にしかありません。しかし起こり得るリスクに神経をとがらせているから、いざというときに自分で考えて対処することができます。

壁の外から見れば、システムに頼り切った壁の中は決して安全な場所とはいえません。地震や台風など大規模な災害は、システムを乗り越えてやって来るのです。壁の中にいる人に、「安全に見えますが、そうでもないですよ」とお知らせすることが、北極冒険家として活動する私の役割の一つかもしれません。

私は北極点無補給単独徒歩(物資補給を一切受けず、犬ぞりなどの機動力も使用しない)に2度挑戦し、いずれも物資枯渇により途中でリタイアしています。一度始めたことを諦めるのは難しいことです。残された12日分の物資で17日分の行程を乗り切る方法を無理やり編み出したこともありました。

しかししばらくして、「ここでやめる」という選択を無意識に排除していたことに気づきました。ブレーキの存在を忘れて、アクセルの踏み方ばかりを考えていたのです。

思考の邪魔をしていたのは、「行きたい」「諦めたくない」という主観です。主観は感情的であって、判断の邪魔になります。生きて帰るには、客観的に「物資が足りない」という事実だけを基に判断しなければなりません。

「引き返す勇気」などというものはありません。勇気というのは立ち向かうときに出すものです。引き返すときに必要なのだとしたら、引き返した先に立ち向かわなければならない何か─どうやって言い訳しようか、素直に謝ろうか─があるからです。

これは、冒険に出るために企業から支援を受けている私にとって、非常に重要な視座です。「お金を出してもらっているから」という主観によって判断が揺らいだり、冒険を続行する理由になってはならないのです。

どんな大企業であれ、相対するのは人間同士です。目の前にいる担当者と、お金によらない信頼や共感の関係を築くことが大切です。お互い「援助していいのかな」「支援してもらえるかな」と相手を見ていき、そのやり方で多くのスポンサーと出会ってきました。

「あの火災は起こしてよかった」失敗はその後の行動を変える

「冒険研究所書店」の店内。書籍はすべて荻田氏自身で選定している

私には、書店の店主という別の顔があります。「なぜ冒険家が書店を」と不思議がられますが、読書と冒険は遠いものではなく、極めて主体的な行為であるという共通項を持っています。

ところが多くの人には、読書を受動的なものだと思っている節があります。本の中に答えを求め、大事なところだけ頭にダウンロードするような読み方をしているからでしょう。それでは機械と同じです。

本に書かれているのは著者の導いた答えであって、読者への答えは書かれていません。読んで自分の答えを導き出すことが、読書だと思います。

そのことに気づかせてくれたのが、ショーペンハウエルの名著『読書について』です。一見、読書がよくないことのように書かれています。しかし本当に伝えたいのは「自分で考えろ、さもなければおまえの主体性が失われていくぞ」ということだと、私は解釈しています。それはまさに、冒険という行為そのものなのです。

誰もが冒険に出ることはできませんが、どこにいても読書はできるでしょう。冒険も読書も、探究によって深い学びが得られるからこそ、冒険家である自分が書店を続けることには、大きな意味があると思っています。

北極に魅せられて、気づけば20年以上が経ちますが、一度だけ「もう冒険なんかやめよう」と思ったことがあります。テントの中で誤って燃料のガソリンをこぼし、火災を起こして両手に大やけどを負ったのです。幸い救助されましたが、自分がふがいなくなったのです。

それからしばらくは、自分のやったことを認めたくないという状態でしたが、1年も経つと、当時のことを思い起こせるようになりました。すると、なぜあんなことが起きたのかが理解できたのです。

事故を起こしたのは2007年のことで、冒険を始めて8年目でした。今から思うと慣れと油断と慢心に満ちていて、こんなもんだろうと、テントを張るにも何をするにも、慎重さを欠いていました。つまり起こるべくして起きた結果でした。

もしあのとき火災を起こさずゴールしていたら、私はおそらく慢心したまま翌年も冒険に出たでしょう。そして命を落としたかもしれません。

少々語弊があるかもしれませんが、ずいぶん後になって、「あの火災は起こしておいてよかった」と心底思うようになりました。結局私は冒険をやめることはなく、より一層注意深く、自分を内省的に見つめながら行動するようになりました。人生最大の教訓として、今も胸に深く刻んでいます。

[編集]株式会社ボルテックス ブランドマネジメント課
[制作協力]株式会社東洋経済新報社

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