第7回
汐留開発 〜 小泉内閣「都市再生特別措置法」施行

図1

©Hiroo Ichikawa

 さて2002年に汐留の都市開発が出来上がります。
これは旧国鉄が負債を抱え込んだので、いくつかの会社に分割して民営化した際、汐留はJR貨物のものとなって、国鉄清算事業団はこの土地を民間に売るわけです。バサバサと切り売りしました。
これが私たちから見ると最悪な計画で、要するに街を造っていないわけです。
例えば汐留に行っても、集まる場所も広場もありません。地下には何となく広場がありますが、外からは視認できません。
これは都市計画に精通していない人の考えで、とにかく土地を切り売りしさえすれば儲かるという発想から行われました。
つまりJR貨物、すなわち旧国鉄の負債をいかに減らすかだけを考え、とにかく高く売れればいいという発想で造った街なのです。
しかも、これは有名な話ですが、風の通り道を造らずに密集して高いビルを建てたため、海から来る風が止まってしまいました。確かに汐留のビル群ができたせいで都心の温度が1~2度上昇しているはずで、東京湾から入る風をここで止めてしまった罪作りの案ということになりますが、ここで分かることは不動産は借金を返すのに非常に有効なツールであって、それを国鉄清算事業団が行ったということです。


 これもビルの方向を考えて、広場を造って風を通せば、何も問題ないわけです。
なぜそうしなかったのか。
この計画には総合コーディネーターとしてディベロッパーが参加していません。もちろん、区画をどう切るかの工夫はしています。
しかし、トータルな街づくりという意味では、いろんなディベロッパーがあって開発事業者がいますが、餅は餅屋という言葉があるように、鉄道事業者がやるとこういう風になる。
JRには申し訳ありませんが、これは結果です。
本当にこれは悪い例で、これを認めた東京都もいけない。
この開発は「都市再生特区」を使わずに従来のスキームで行っていて、東京都は容積率を緩和したりしていますが、このときもっと都が指導していれば、こうならずに済んだわけで、非常に悔やまれる計画だったと私は思っています。

図2

©Hiroo Ichikawa

 2002年6月、汐留の区画整理ができた位のタイミングで、小泉内閣の目玉である「都市再生特別措置法」が施行されます。
東京でいかに開発をスムーズに行えるかということは、国の経済復活に大きく関わります。
当時ちょうど有名だったのは上海です。
このとき上海は10年間で川の西側に「浦東新区」という超高層街区を造りました。
これがわずか10年間で完成したのはなぜか。それはいろんな規制を強くせず、緩めたからです。
その一方で日本の場合はどうかと言うと、これが規制だらけなわけです。
これを何とかしなければいけないということで、この法律で「都市再生緊急整備地域」の指定などが行われ、自由度の高い都市計画をスムーズに定めることができるようになります。


図3

(2002国土交通省資料)

 この法律のポイントは、「都市計画・事業」のなかにある「都市計画提案制度」と「都市再生特別地区(特区)」、それと「期限を区切った都市計画決定」です。
これらを実行すれば開発スピードは早まるに決まっていて、あとは「金融支援」を行います。
そもそも都市再生本部は内閣府に設置されていますから、財務省が関わる金融支援はうまくいっていませんが、都市計画事業についてはかなり前進するわけです。
つまり「都市計画提案制度」というのは、開発したい人が提案できる仕組みであり、開発してもいいのは「都市再生特別地区」内です。
この特区は東京のかなり広い区域にかけた緊急整備地域内で、開発面積が1ヘクタールを超すものになります。
あとは都市計画決定から6ヶ月以内に決定しなさい、事業認可を同時に決めなさいということを柱にしました。
この影響は非常に大きかったわけです。


 結果的にそれまで最短でも2年8カ月かかっていた作業が、5分の1程度の6カ月間でできるようになりました。
これは劇的な変化です。
ですから小泉内閣時のこの法律がなければ、いま現在の劇的な変化はないわけですが、これを断行したわけです。
その背景には、経済が危なくて、何とかしないと日本が危ない、東京が蘇らなければならないという危機感がありました。これが理由です。 何事も政策を実行に移すには、こうした重要な局面があるわけです。
このときは“バブル経済の崩壊による日本経済崩壊の危機”です。
これがあったために、通常成し得ないこの法律ができたのです。

図4

 では実際に「都市再生特別地区」に指定された事業の案件数はどれくらいだったのでしょうか。
これは5年前の2013年までのデータですが、実は東京ではトータルでも、2004年から2008年のちょうどピークだった時代でも、特区に指定されていない事業案件の方が多かったことが分かります。
あえて特区制度に頼らずとも、2003年以前から様々な知恵を絞って開発を進めていたことを読み取ることができるわけです。

プロフィール

市川宏雄(いちかわ ひろお)

市川宏雄(いちかわ ひろお)
明治大学名誉教授
帝京大学特任教授、中部大学客員教授

 1947年東京に生まれ育つ。早稲田大学理工学部建築学科、同修士課程、博士課程を経て、カナダ政府留学生として、ウォータールー大学大学院博士課程(専門は都市地域計画)を修了(Ph.D.)。一級建築士でもある。
 ODAのシンクタンク (財)国際開発センターなどを経て、富士総合研究所主席研究員の後、1997年明治大学政治経済学部教授(都市政策)。都市計画出身でありながら、政治学科で都市政策の講座を担当するという、日本では珍しい学際分野の実践者。2004年から2018年3月まで明治大学公共政策大学院ガバナンス研究科長。2008年から2016年まで明治大学専門職大学院長、明治大学危機管理研究センター所長も務める。現在、日本自治体危機管理学会会長、森記念財団業務担当理事、町田市・未来づくり研究所所長、日本危機管理士機構理事長等、要職多数。Program Committee Member of Innovative City Forum, Steering Board 海外ではCheering Board Member of Future of Urban Development and Services Committee, World Economic Forum(ダボス会議)。

専門とする政策テーマ:
大都市政策(都心、都市圏)、次世代構想、災害と危機管理、世界都市ランキング、テレワーク