第5回
日本経済再生への戦略 ~「第5次首都圏基本計画」

図1

©Hiroo Ichikawa

 バブル経済崩壊で土地の価格が暴落し、東京都心では場所によって10分の1程までになりました。
土地の担保価値が損なわれたため、銀行は貸しはがしなどの過度な借金返済を迫り、企業の倒産が相次いで社会問題化します。これではいけないということで、当時の小渕内閣は99年2月、とにかく国会を切り抜けるためにも、ここで規制緩和して開発するしかないというのがポイントとなり、ここで後の小泉内閣が行うことになる「都市再生」という政策が登場します。
都市再生、すなわち都市開発の規制をもっと緩めることで、日本経済を再生しようとしました。東京都心で開発を進めれば、土地の価格が上がり、金を貸した銀行も助かる、そして一般会社は貸しはがしに遭わずに済む。すべてが連鎖していて、開発を進めれば何とかなるだろうというわけです。ただしこれは日本全体で行うとしていましたが、実際には主として東京だけです。
他の都市では無理で、東京で開発すれば上がることが予想されていたわけで、そこで「日本経済再生への戦略」がまとめられます。
具体的には都市再生委員会を設置すべきとされるなど、経済戦略会議で答申されます。実際に行ったのは後の小泉内閣になりますが、ここに出発点があったわけで、99年のあの頃は日本経済が危なくて将来が悲観されていた時期でした。
そのカンフル剤として東京都心で開発を進めることになったのです。

 ここで面白いことに、都市の政策はいつも主役ではありません。
なぜかと言うと、日本を引っ張っている最大グループが経済系だからで、実は都市政策はグループとしてはパワーがありません。
ところが今回初めて都市開発を経済復活のけん引役にしようと、国が経済系の理由から言い寄ってきたわけです。だいたい都市開発について行政は規制をする側であり、それを凌駕する力を持っているのはその時の政治です。
なかでも経済グループは巨大な力を持っていますから、その力で都市を使って稼ごうという風潮に変化した非常に珍しいケースだったわけです。ここでいよいよ初めて都市開発が主役になります。

図2

©Hiroo Ichikawa

 その後にできた「第5次首都圏基本計画」ですが、“分散政策からネットワーク型への転換”が図られます。
そのポイントは、首都圏における大環状連携軸を形成することです。今もまだ建設途中ですが、圏央道や外環など都市構造の整備を行うことで、とにかく東京都心への一極集中を抑える業務核都市を諦めるという方向に変わります。


目指すべき地域構造 –分散型ネットワーク構造の実現-
目指すべき地域構造 –分散型ネットワーク構造の実現-

出典:第5次首都圏基本計画(1999年)

 では「分散型ネットワーク構造」とは一体何でしょうか。これまでは左上図にあるように都心に来るものを抑える業務核をつくる構造でしたが、これは失敗します。
これ以降は右下図のようになり、あくまでもネットワークで良いという形に変わります。
これは大きな政策転換になります。

 業務核都市ですが、第4次首都圏基本計画までは横浜・川崎などでしたが、第5次首都圏基本計画でさらに都市が増えます。八王子・立川に多摩センターを加え、町田・相模原、川越、春日部・越谷、柏が加わりました。
もともと業務核都市はオフィス主導の核をつくるはずでしたがうまく機能しなかったため、第5次では商業核も業務核に含めた結果、業務核都市は13に増えます。
なぜ実態が変わったのに業務核という名称を継承するのか。なぜなら打ち出した政策というものは簡単には看板を取り下げません。
必ず継続性が求められますので、業務核という名前を消さずに業務核としての定義を広げて、商業核を入れることで数を増やしたわけです。
ですから国はまだ業務核は存続しているというスタンスですが、中身の実態は大きく変わっています。これは東京の都市開発とは関係ありませんが、郊外については商業核を含めなくては難しいということになったわけです。

業務核都市(第4次と第5次の首都圏基本計画)
業務核都市(第4次と第5次の首都圏基本計画)

出典:国土交通省資料(都市・地域整備局)

 これは第5次首都圏基本計画でどこが業務核都市だったかという地図です。
大体東京の郊外が該当しています。

業務核都市(第5次首都圏基本計画)
業務核都市(第5次首都圏基本計画)

(首都圏白書)

 これは業務核都市では結局人口があまり増えていないというグラフです。
越谷や八王子、町田などで増えましたが、その外側の関東北部の中心都市である宇都宮や前橋、甲府などでは減っています。
その一方で、区部では平成5年~9年の人口減少に対して、平成10年~14年で大幅に増加しています。本来、業務核都市は全て増えていくべきところが、結果として一番増えたのは区部だったということです。
これが今に繋がる都心回帰のポイントになります。

広域連携拠点人口転出入率(1993-2002)
広域連携拠点人口転出入率(1993-2002)

(首都圏白書)

プロフィール

市川宏雄(いちかわ ひろお)

市川宏雄(いちかわ ひろお)
明治大学名誉教授
帝京大学特任教授、中部大学客員教授

 1947年東京に生まれ育つ。早稲田大学理工学部建築学科、同修士課程、博士課程を経て、カナダ政府留学生として、ウォータールー大学大学院博士課程(専門は都市地域計画)を修了(Ph.D.)。一級建築士でもある。
 ODAのシンクタンク (財)国際開発センターなどを経て、富士総合研究所主席研究員の後、1997年明治大学政治経済学部教授(都市政策)。都市計画出身でありながら、政治学科で都市政策の講座を担当するという、日本では珍しい学際分野の実践者。2004年から2018年3月まで明治大学公共政策大学院ガバナンス研究科長。2008年から2016年まで明治大学専門職大学院長、明治大学危機管理研究センター所長も務める。現在、日本自治体危機管理学会会長、森記念財団業務担当理事、町田市・未来づくり研究所所長、日本危機管理士機構理事長等、要職多数。Program Committee Member of Innovative City Forum, Steering Board 海外ではCheering Board Member of Future of Urban Development and Services Committee, World Economic Forum(ダボス会議)。

専門とする政策テーマ:
大都市政策(都心、都市圏)、次世代構想、災害と危機管理、世界都市ランキング、テレワーク